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	<title>かなの靈</title>
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	<description>文字の靈などといふものが、一體、あるものか、どうか——中島敦</description>
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		<title>日本イエズス会版における日本語活字の開発: 『病者を扶くる心得』の仮名活字組版から</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2010/05/development_in_jmp_of_japan/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2010/05/development_in_jmp_of_japan/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 17 May 2010 13:26:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[印刷史]]></category>
		<category><![CDATA[活字史]]></category>

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		<description><![CDATA[これは卒論の要旨をさらに2010年2月10日の審査のために書き改めたものである。文意不明瞭を当日指摘されたが、それもまた現実とて、WordPressにあはせた見た目上の改変のほか、さらに改めることはしなかった。なお、この [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>これは卒論の要旨をさらに2010年2月10日の審査のために書き改めたものである。文意不明瞭を当日指摘されたが、それもまた現実とて、WordPressにあはせた見た目上の改変のほか、さらに改めることはしなかった。なお、この問題にご関心の向きは、拙論よりも、まったく独立に書かれた、</p>
<ul>
<li>白井純(2010)「キリシタン版前期国字版本の仮名用字法について」『国語国文研究』137</li>
</ul>
<p>に就くべきであらう。もちろん、こちらのほうが論ずる範囲がひろいし、本稿の興味とぴったり一致するものではないが。<br />
<span id="more-73"></span></p>
<h3>主題について</h3>
<p>本研究は，日本イエズス会版において，日本語活字をどのように開発したのかという問題を主題とする。そのうえで，今回は，イエズス会が1593年に刊行したと考えられる『病者を扶くる心得』を穿鑿することとした。<br />
日本イエズス会版は，16世紀末から17世紀初頭にかけて，イエズス会日本(副)管区が出版した諸書のことである。日本に西洋式活版印刷が導入されたはじめであると同時に，日本語による活版印刷が行われた最初にあたる。その活動は前後期にわけられるが，後期は，その活溌な出版活動からおおきな関心を集め，さまざまな研究が蓄積されている一方，試作的な前期についてはじゅうぶんな検討がなされてこなかった。<br />
本書『病者を扶くる心得』は，前期活動に属する書物としてもっともおそい部類に入る。この前期の活動は，近年史的な面について明らかになりつつあり，ヨーロッパにおいて調達した活字に頼っており，開発技術についてはとくに得ていなかったであろうことが判明しているが，その技術をめぐっては分明になったとはいいがたい。本書での活字の使用技術は，より整理されているものであることが期待され，かかる問題の検討の上で格好のものである。</p>
<h3>中心とする課題</h3>
<p>本研究では，上記の主題について，</p>
<ol>
<li>活字が開発されたときの体系からどのように整理されたか検討し，</li>
<li>その整理によってどのようなことが可能となったか，</li>
</ol>
<p>という観点からの検討を試みた。</p>
<h3>調査と議論</h3>
<p>まず，第2章において1.について検討した。第2節においては，本書における使用についての問題である活字分類と，活字製作の問題である体系の問題とを比較し，本書における用法が活字体系に従いつつ，濁音や半濁音の仮名について，製作された字体を超えて，部分的にそれを拡張していることを確認した。2.にも関係することであるが，第3節においては，活字用法のなかで位置のさだまらないところのある，すなわち選択に自由度がある活字について検討し，また，その要因たるべき説明項があるか検討した。その結果，各丁ごとに選好が異なること，それが魚尾の出現パターンと一定の関係にあることを指摘しえた。<br />
ついで，第3章において2.について検討するため，個々の仮名活字の用法を見た。検討するに際して，印刷体制が日本にできてすぐ刊行されたと考えられている『どちりいな・きりしたん』についての研究を比較対象として参照した。その結果，位置による異体仮名の選択が『どちりいな・きりしたん』のそれより明確になっていること，位置による選択のほかに，文法的ないし音韻的な意義にもとづいた選択が確認できるようになっていることを指摘した。また，これは第2章第3節においてみた仮名選択と異なり，一貫性があることを確認した。</p>
<h3>結論</h3>
<p>以上のことから，上記検討課題について，以下のように結論した:</p>
<ol>
<li>開発された体系の大枠はほぼ維持されているが，濁音や半濁音の仮名について整理のうえ，拡張されている。</li>
<li>活字の整理にともない，文字選択の安定性の増加がなされた。</li>
</ol>
<p>そのいっぽう，活字体系そのものの拡張が行えなかったため，用法だけの拡張にはそもそも破綻があったのである。<br />
かかる整理を行ったのは，読みやすさを目指すことよりも，多種多様な用字がありえるなかで，そのたびごとに用字を思い悩むことを避けることにあっただろう。規則的な用字法はかならずしも読みやすさにつながるわけではないいっぽう，文選の効率化は，組版や印刷の効率化に繋がるからである。<br />
これを承けて，本稿で指摘したことに発展させるべきことがあるならば，活字の整理という観点から，連綿や仮名もじ遣いなど書記行為をどのように捉えることができるか，検討してゆくことが挙げられるのだろう。そのうえで，本稿でしたような使い分けのない，あるいは使い分けにくい仮名の検討は，一定の意義があるものと思われる。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>中國古典を訓讀する意義について</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2009/09/on_japanese_trad_transl_of_classic_chinese/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2009/09/on_japanese_trad_transl_of_classic_chinese/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 29 Sep 2009 19:20:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[言語]]></category>
		<category><![CDATA[Classical Chinese]]></category>
		<category><![CDATA[Education]]></category>
		<category><![CDATA[Japanese Reading of Classical Chinese]]></category>
		<category><![CDATA[Japanese Reading of Hanzi]]></category>

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		<description><![CDATA[以下の文章は、漢文を講ずる科目で單位を得るために書いたレポートである。そもそも結論を出すつもりもなかったのだが、したがきもせず書きおろしたため、文辭よろしくないことおほからうと思ふけれども、ご寬恕いただきたい (しかもコ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>以下の文章は、漢文を講ずる科目で單位を得るために書いたレポートである。そもそも結論を出すつもりもなかったのだが、したがきもせず書きおろしたため、文辭よろしくないことおほからうと思ふけれども、ご寬恕いただきたい (しかもコンピュータで原稿を作成したわけではないので)。</p>
<p><span id="more-36"></span>〇、以下の論では、漢文敎育を意義あるものとして擁護し、擁護することにより生ずる若干のことどもを考へてみたい。</p>
<p>一、漢文訓讀とは、基本的に、漢文を日本語の古典として利用する手段である。</p>
<p>このことにより、漢文を學びきたったやり方をある程度なぞりうるほかに、古文の一環として扱へたり (中國語音に觸れずに)、日本の古典作品にまま見られる漢語語彙に親しみ、漢文をなぞった日本語文體や表記への礎としたりもできる<sup class='footnote'><a href='#fn-36-1' id='fnref-36-1' onclick='return fdfootnote_show(36)'>1</a></sup>。かやうに古文敎育に漢文敎育はおほきな意義を有してをり、そしてそのうへで訓讀を避けることはできない。</p>
<p>しかし、あるいはであるがゆゑに、漢文敎育にはおほきな問題がある。漢文を敎へる側にこのやうな意義づけがかならずしもなされてゐないゆゑに漢文敎育が意義のないことのやうに受けとられることが絕えない。また、敎へられる漢文訓讀法にも尠からぬ問題もある。以下、論ずべき點をあげてゆく。結論はにはかに出せないが、それぞれの敎育の必要であつかひが異なってしかるべきことであらうやうにも思ふ。</p>
<p>二、おなじ</p>
<blockquote><p>子曰、惟仁者能好人、能惡人（論語・里仁・3）</p></blockquote>
<p>が、</p>
<blockquote><p>子曰く、惟仁者能く人を好し、能く人を惡む (武內義雄譯、岩波文庫、1943)</p></blockquote>
<p>となり、</p>
<blockquote><p>子の曰わく、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む (金谷治譯、岩波文庫、1963)</p></blockquote>
<p>となる。</p>
<p>二、一、傳統的と認むべきは、前者であって、宮廷の訓をよく傳へ、まこと平安和文にならべてなんら異とするところがない。これに對し、金谷氏のものはいたって近代的とすべきで、ここに斷絕がある。</p>
<p>金谷氏の依った讀みかたは、江戶時代の道春點および後藤點であるが、これら二點は荻生徂徠の華音 (當代中國音) 直讀論への批判として提出されたものであり、かつ、和文ではなく漢文を正確に讀むべきとのたちばにも立ったものであった<sup class='footnote'><a href='#fn-36-2' id='fnref-36-2' onclick='return fdfootnote_show(36)'>2</a></sup>。このたちばは漢學者のたちばとして共有され、現代敎育における漢文訓讀法の基礎とされる「漢文敎授ニ關スル調査報吿」(『官報』 8630號、1912)(服部宇之吉らの編) へと引きつがれて現代にいたってゐる。</p>
<p>しかし、このたちばは金科玉條としてよいのか? 覆すとしよう。では、漢文訓讀の傳統の一翼を擔ってゐた佛敎敎團內部でさまざまな訓讀が行はれてきたことはよく知られるところであるが、どれが傳統的で、どう讀んでゆくのか?</p>
<p>二、二、一、よみかたにはべつの問題もある。武內譯は舊字・歷史的假名遣によった讀みくだしである一方、金谷譯は當用漢字・現代假名づかいである。この點について、文部 (科學) 省は、現代假名遣の現代語專用規定によってか、常用漢字・歷史的假名遣といふたちばである。</p>
<p>このたちばは適切かいなか。</p>
<p>二、二、二、歷史的假名遣にも若干の——そして漢文訓讀においてより重要な問題がある。歷史的假名遣、わけても漢字音を古代日本語で寫さうとした字音假名遣は、江戶時代、國學者の硏究によって基礎づけされたものであるが、それゆゑにさまざまな問題も知られてゐる。三と散の字音が區別されてゐない <sup class='footnote'><a href='#fn-36-3' id='fnref-36-3' onclick='return fdfootnote_show(36)'>3</a></sup>などがそれで、『漢辭海』など訂正した漢和辭書も登場しつつある一方、まだまだ受けいれられたとは云ひがたい。</p>
<p>しかし、歷史的假名遣 (和語) と字音假名遣を峻別し、字音假名遣をとりたててもちゐないたちばもある。どれに依るべきか?</p>
<div class='footnotes' id='footnotes-36'>
<div class='footnotedivider'></div>
<ol>
<li id='fn-36-1'>齋藤希史「漢文の命脈: 古典文から近代文へ」村田・ラコール編『漢字圏の近代: ことばと国家』2005所收、pp. 79-80 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-1'>&#8617;</a></span></li>
<li id='fn-36-2'>齋藤希史「頼山陽の漢詩文: 近世後期の転換点」東京大学教養学部国文・漢文学部会編『古典日本語の世界: 漢字がつくる日本』2007所收、pp. 199–208 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-2'>&#8617;</a></span></li>
<li id='fn-36-3'>沼本克明「字音假名遣いについて」築島編『日本漢字音史論輯』1995所收、p. 100 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-3'>&#8617;</a></span></li>
</ol>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>ウィキメディアにおける言語多様性</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2009/09/language_diversity_in_wikimedia/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2009/09/language_diversity_in_wikimedia/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 20 Sep 2009 14:27:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィキメディア]]></category>
		<category><![CDATA[言語]]></category>
		<category><![CDATA[Talk]]></category>
		<category><![CDATA[Wikimedia]]></category>

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		<description><![CDATA[2009年9月20日に，東京メディフェス2009において開催されました分科会「グローバリゼーションとオープンソース」においてウィキメディアンからパネリストとして参加いたしました。そこで，まずウィキメディアの言語多様性につ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2009年9月20日に，東京メディフェス2009において開催されました分科会「グローバリゼーションとオープンソース」においてウィキメディアンからパネリストとして参加いたしました。そこで，まずウィキメディアの言語多様性についてお話しいたしました。</p>
<p>ひとまえでスライドを作って発表をするというのはあまり経験がなく，また内容もひとつのことに特化しすぎたきらいがあり，あまりうまく伝わらなかったかも知れません。配付資料を作りませんでしたので，ここに発表資料を公開して代えようと思います。</p>
<p><span id="more-54"></span>2009年9月20日: 東京メディフェス2009　分科会 D　グローバリゼーションとオープンソース　発表</p>
<h3>何を話すか</h3>
<ul>
<li>ウィキメディアのコミュニティの言語多様性の様相について
<ul>
<li>コミュニティの多様性</li>
<li>コミュニティ間の調整</li>
<li>言語多様性についての取り組み</li>
</ul>
</li>
<li>断りがないかぎり，データは2009年9月19日のもの</li>
</ul>
<h3>自己紹介</h3>
<ul>
<li>地方大学文学部の大学生。専門は日本語学</li>
<li>2003年2月に日本語版ウィキペディアを出発点として活動を開始。その後，ウィキクォートやウィキソースにも活動の場を広げる</li>
<li>ウィキメディア全体に関わる文書の日本語訳活動にも関わってきた</li>
<li>最近はウィキペディア以外の活動が多い。11月にWikimedia Conference Japan 2009[1]をやります</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://www.wcj2009.info/">http://www.wcj2009.info/</a></p>
<h3>ウィキメディア財団 (Wikimedia Foundation)</h3>
<ul>
<li>ウィキペディアなどのオープン・コンテントな教育的リソースを作るプロジェクトの運営組織</li>
<li>ウィキメディアの方針
<ul>
<li>多様性の重視</li>
</ul>
</li>
<li>財団はプロジェクトやコミュニティを指導しない
<ul>
<li>プロジェクトとコミュニティの独立性を尊重</li>
</ul>
</li>
<li>ひとつの運営組織と24の地域的ユーザー組織[1] (23の国/地域単位と，ひとつの地区単位)
<ul>
<li>その地域におけるユーザーや財団の活動の支援</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://wikimediafoundation.org/wiki/Local_chapters">http://wikimediafoundation.org/wiki/Local_chapters</a></p>
<h3>ウィキメディア・プロジェクトの多様性 (1)</h3>
<ul>
<li>プロジェクトの多様性[1]
<ul>
<li>ウィキペディア，ウィクショナリー，ウィキブックス，ウィキニュース，ウィキクォート，ウィキソース，ウィキヴァーシティー，ウィキスピーシーズ，ウィキメディア・コモンズ……計10プロジェクト</li>
<li>共通点 [2]:ウィキ，コミュニティーによる運営，フリー・ライセンス，中立的な観点 (NPOV)</li>
</ul>
</li>
<li>言語の多様性
<ul>
<li>ウィキペディア開始当初から多言語化: 開始1か月で英独仏日など12言語版 (Ayers, Matthews, &amp; Yates, 2008: p. 408)</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://wikimediafoundation.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88">http://wikimediafoundation.org/wiki/ウィキメディア財団のプロジェクト</a><br />
[2] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Founding_principles">http://meta.wikimedia.org/wiki/Founding_principles</a></p>
<h3>ウィキメディア・プロジェクトの多様性 (2)</h3>
<ul>
<li>「言語ごと」に分割
<ul>
<li>ウィキペディア: 271言語版 [1]
<ul>
<li>アイヌ語版，琉球語版，エルフ語版はない</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
<li>新規言語版基準 [2]
<ul>
<li>言語認定の有無(ISO-639コードの有無)/必要性/プロジェクトが維持できるか (試験サイト[3]で実績)</li>
<li>多様な観点の確保≠少数言語保護</li>
</ul>
</li>
<li>その言語ではじめての百科事典になることも多い
<ul>
<li>cf.アフリカ，インド言語 (Lih, 2008: pp. 157−158)</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%85%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E7%B5%B1%E8%A8%88">http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:全言語版の統計</a><br />
[2] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Meta:Language_proposal_policy">http://meta.wikimedia.org/wiki/Meta:Language_proposal_policy</a><br />
[3] <a href="http://incubator.wikimedia.org/">http://incubator.wikimedia.org/</a></p>
<h3>成立している要因</h3>
<ul>
<li>自由に参加・編集できる
<ul>
<li>Wikiソフトウェア
<ul>
<li>多くの手でひとつの構造体 (プログラム) を作りあげるためのソフトウェア (江渡, 2007: p. 26)</li>
<li>Ward Cunninghamが1994年に開発[1]</li>
</ul>
</li>
<li>フリー・ライセンス
<ul>
<li>だれでもいつでも参加できる</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
<li>ヴォランティア・コミュニティによる自治である
<ul>
<li>現実の多様性に対応するうえで，一番コストがかからない</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://c2.com/cgi/wiki?WikiWikiWeb">http://c2.com/cgi/wiki?WikiWikiWeb</a></p>
<h3>ウィキメディアにおける意思疎通 (1)</h3>
<ul>
<li>多くの言語版，ひとつの運営組織
<ul>
<li>意思疎通の手段はオンライン・英語
<ul>
<li>“Despite unnaturalness of all people speaking English, we can communicate in English. That is great thing.”——GeraldM, Wikimania 2007にて</li>
</ul>
</li>
<li>ウィキメディアからの発表も，ほかの言語版の参加者との交流も，英語を経由する</li>
</ul>
</li>
<li>英語をしゃべるひと以外も巻き込みたい
<ul>
<li>→翻訳の必要性</li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3>ウィキメディアにおける意思疎通 (2)</h3>
<ul>
<li>超プロジェクトレベルの文書翻訳
<ul>
<li>すべてがヴォランティア活動</li>
<li>コミュニケーション委員会翻訳小委員会が組織 [1]
<ul>
<li>ウィキメディアにおける言語の重要さ (=話者数＋活溌さ) に沿って優先言語を設定</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
<li>優先言語ですら必ずしも翻訳は揃わない
<ul>
<li>全体 (’08/09−’09/08[2])
<ul>
<li>4 / 12 / 17 (13文書の公開言語数の1−3四分位数)</li>
<li>露出するぶぶんだけは訳される (cf.サイトノーティス)</li>
</ul>
</li>
<li>日本語: 優先度3，翻訳者3〜4人，達成率約50%</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Communications subcommittees/Trans">http://meta.wikimedia.org/wiki/Communications subcommittees/Trans</a><br />
[2] <a title="http://meta.wikimedia.org/wiki/Translation_requests" href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Translation_requests">http://meta.wikimedia.org/wiki/TR</a></p>
<h3>ウィキメディアにおける意思疎通 (3)</h3>
<ul>
<li>理事選における言語版の有権者投票率と翻訳率
<ul>
<li>投票率のたかさと翻訳率に相関はない
<ul>
<li>→翻訳率とメタ・コミュニティ参加率は関係がない</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳がない言語からの投票＝英語を読んでいる</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳は利用されているか?
<ul>
<li>2008 →2009選挙: 投票率低下，翻訳率向上 (投票要件に変化なし)
<ul>
<li>50%超翻訳言語数:49 (’09) vs. 22 (’08)</li>
<li>有効投票数: 2940 (’09) vs. 3019 (’08)</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3>ウィキメディアの限界</h3>
<ul>
<li>地域の多様性の偏在[1]
<ul>
<li>英語版の典型的参加者像[2]: 男性，技術にくわしく，高学歴で，英語を話し，白人で，15−49歳で，キリスト教国，先進国，北半球に住み，事務職または学生</li>
<li>‘w:en:Obama’　Obama, Fukui→Barack Obama[3]</li>
</ul>
</li>
<li>言語の偏在
<ul>
<li>ウィキペディアの項目の64%が10言語版に偏在</li>
<li>言語話者の多さとプロジェクトでの蓄積とが一致しない (Zachte, 2009)
<ul>
<li>underrepresented language (cf.ヒンドゥー語など)</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] Glott, R., Matthews, &amp; Yates (2009). <em>Wikipedia survey: First results</em>. Retrived from <a href="http://wikimediafoundation.org/wiki/File:Wikipedia_General_Survey-Overview_0.3.9.pdf">http://wikimediafoundation.org/wiki/File:Wikipedia_General_Survey-Overview_0.3.9.pdf</a><br />
[2] <a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:WikiProject_Countering_systemic_bias">http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:WikiProject_Countering_systemic_bias</a><br />
[3] <a href="http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Obama_%28disambiguation%29&amp;dir=prev&amp;action=history">http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Obama_%28disambiguation%29&amp;dir=prev&amp;action=history</a></p>
<h3>これまでの取り組み</h3>
<ul>
<li>多言語化，国際化
<ul>
<li>文字コード問題，ソフトウェアの翻訳 (Lih, 2008: pp. 141−145; 150−157)
<ul>
<li>UTF8移行，繁簡体字，キリル・ラテン文字問題……</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
<li>Wikimania，Wikipedia Academy[1]などのプロモーション活動
<ul>
<li>Wikimania:フランクフルト (2005), ケンブリッジ (USA) (2006), 台北 (2007), アレクサンドリア (2008), ブエノス・アイレス (2009)
<ul>
<li>2009年にはじめて英西二言語で運営</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Wikipedia_Academy">http://meta.wikimedia.org/wiki/Wikipedia_Academy</a></p>
<h3>まとめ</h3>
<ul>
<li>ウィキメディアは多様な観点の確保を目指す一環として言語多様性を重視している</li>
<li>ウィキメディアでは翻訳の提供を促進してきた</li>
<li>翻訳によって言語のバリアーを取り除いたあとのことは手つかずである</li>
</ul>
<h3>資料 (1): プロジェクトごとの活動のひろがり (2009年7月31日)[1] (Zachte, 2009)</h3>
<ul>
<li>ウィキペディア: 1373.8万項目
<ul>
<li>英語: 300.1万項目, 日本語: 61.1万,ドイツ語: 95.1万, スペイン語: 50.8万,フランス語: 83.6万……
<ul>
<li>アクセス数上位10言語版で62.6%の項目数</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
<li>ウィクショナリー (英語版 (万)/全体 (万)): 132.9 / 601.3; ウィキブックス: 3.7 /  12.1; ウィキニュース: 1.5 / 8.5; ウィキクォート: 1.5 / 9.2;ウィキソース: 12.2 / 60.3;ウィキヴァーシティー: 1.1 / 2.5</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://stats.wikimedia.org/">http://stats.wikimedia.org/</a></p>
<h3>資料 (2): 2009年度理事選での翻訳率 (14文書)[1]</h3>
<p>UIと完成度を合算した独自の計測法，2008年度も同様</p>
<ul>
<li>100%: 11</li>
<li>99−76%: 21</li>
<li>75−51%: 17</li>
<li>50−26%: 7</li>
<li>25−1%: 23</li>
<li>0%: 0</li>
</ul>
<p>計79言語 (vs. 2008: 41言語)<br />
投票数: 2940</p>
<p>[1] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2009/Translation">http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2009/Translation</a></p>
<h3>資料 (3): 2008年度理事選での翻訳率 (8文書)[1]と投票率 [2, 3](1)</h3>
<p>有権者数 : &lt; 21801人 (&gt; 600 eds (’08/3/1時点)，&gt; 50 eds (1/1−3/29)，等)<br />
アカウントがある言語: 184/272 (多言語プロジェクト74票ふくむ*)<br />
* meta-wiki, oldwikisourceなどを含む。言語特定不可能<br />
有効投票数: 3019<br />
投票が &gt;10の言語: 27言語 (97%)<br />
翻訳率0%で投票があった投票数と言語数: 77/35</p>
<ul>
<li>翻訳率 100% (言語 (投票率/全票にしめる割合)): 14
<ul>
<li>インドネシア語 29.4/0.5,セルビア語 20.6/0.5,ロシア語 18.6/3.9,ギリシア語 17.0/0.3,中国語 17.2/2.6, ドイツ語 15.2/13.5, 英語 13.4/43.2, フランス語12.5/6.2,スペイン語 11.7/3.5,チェコ語10.5/0.6,ポーランド語10.3/2.3,カタロニア語9.7/0.4,イタリア語8.6/2.6,ポルトガル語7.3/1.0</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2008/Translation">http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2008/Translation</a><br />
[2] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2008/Votes/en">http://meta.wikimedia.org/wiki/Board_elections/2008/Votes/en</a><br />
[3] <a href="http://meta.wikimedia.org/wiki/User:Pathoschild/Board_elections_2008_statistics">http://meta.wikimedia.org/wiki/User:Pathoschild/Board_elections_2008_statistics</a></p>
<h3>資料 (4): 2008年度理事選での翻訳率と投票率 (2)</h3>
<ul>
<li>翻訳率 &gt;90%: 2
<ul>
<li>フィンランド語18.5/1.5,日本語 2.9/0.9</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳率 &gt;70%: 5
<ul>
<li>オランダ語16.9/3.0,韓国語 16.5/0.6,アラビア語15.2/0.5, ウクライナ語13.9/0.4,スウェーデン語9.0/1.0</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳率 &gt;60%: 1
<ul>
<li>ヘブライ語41.6/3.9</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳率 20&gt;, &gt;10%: 1
<ul>
<li>ハンガリー語6.9/0.5</li>
</ul>
</li>
<li>翻訳率0%: 3
<ul>
<li>ブルガリア語 17.1/0.4,トルコ語 8.5/0.4,ノルウェー語5.5/0.3</li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3>資料 (5): 現在の取り組み</h3>
<ul>
<li>ソフトウェアの改善
<ul>
<li>使用画面の再設計[1]:使いにくさの除去で参加しやすく</li>
<li>FlaggedRev:ドイツ発，非登録者に表示する版を選択</li>
</ul>
</li>
<li>ウィキメディア・プロジェクトの利用提携 (Ayers, Matthews, &amp; Yates, 2008: p. 461)
<ul>
<li>教育支援: Open Education Resorces, SOS Children</li>
<li>コンテンツ拡大:ドイツ公文書館の写真提供[2]</li>
</ul>
</li>
<li>コンテンツの充実が必要
<ul>
<li>英語版，ドイツ語版などに偏りがち</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>[1] <a href="http://usability.wikimedia.org/">http://usability.wikimedia.org/</a><br />
[2] “Wikipedia receives German pictorial history.” (2008, Dec. 16). <em>Deutsche Welle</em>. <a href="http://www.dwworld.de/dw/article/0,,3851534,00.html">http://www.dwworld.de/dw/article/0,,3851534,00.html</a></p>
<h3>文献</h3>
<ul>
<li>Ayers, P., Matthews, C., &amp; Yates, B. (2008). <em>How Wikipedia works:And how you can be a part of it</em>. San Francisco: No Starch Press.</li>
<li>江渡浩一郎 (2007).「Wikiの本質とは何か」守岡知彦 (編),『人文情報学シンポジウム: キャラクター・データベース・共同行為: 報告書』(pp. 19−28). 京都: 京都大学21世紀COEプログラム東アジア世界の人文情報学研究教育拠点</li>
<li>Lih,A. (2008). <em>The Wikipedia revolution: How a bunch of nobodies created the world’s greatest encyclopedia</em>. NewYork: Hyperion.</li>
<li>吉沢英明 (2006).『ウィキペディア完全活用ガイド』マックス</li>
<li>Zachte, E. (2009). “Wikimedia in numbers.” In proceedings of <em>Wikimania 2009</em>. Retrived from <a href="http://wikimania2009.wikimedia.org/wiki/Proceedings:144">http://wikimania2009.wikimedia.org/wiki/Proceedings:144</a></li>
</ul>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>日本イエズス会版の文字　文字史における活字化の一例として</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2009/01/writing_env_at_the_press_of_the_japan_sector_of_jesuit/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2009/01/writing_env_at_the_press_of_the_japan_sector_of_jesuit/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 11 Jan 2009 07:22:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[活字史]]></category>

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		<description><![CDATA[〇、承前 この文書は、筆者が2008年12月に所属学科にて卒論の中間発表資料として執筆したものである。一箇所誤字訂正をした以外に補筆はほどこしてゐない。 A4サイズで1枚に収めるといふ条件のために論を急いだ面があり、また [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>〇、承前</p>
<p>この文書は、筆者が2008年12月に所属学科にて卒論の中間発表資料として執筆したものである。一箇所誤字訂正をした以外に補筆はほどこしてゐない。</p>
<p><span id="more-30"></span></p>
<p>A4サイズで1枚に収めるといふ条件のために論を急いだ面があり、また、論といふよりはマニフェスト的であって、活字研究の雰囲気をある程度知ってゐなければおもしろみのかけらもないやうな発表を作ってしまった。</p>
<p>先行研究としての言及は、いはゆるキリシタン版研究に偏ってしまったといへ、文字史や活字史研究には十分に触れることができなかった。また、活字本と手写本の性質の相違への言及も不十分であって、会場のかたがたに組版の作業が伝はらなかったやうであった。それは爾後の課題として、ここであらためて説くことはしないが、文字の具体性をどのやうに扱ふか、慎重にしてゆきたい。</p>
<p>研究史のとりあつかひもまだまだこなれず、不適切な言及やまとめでしかないことを恐れる。ご容赦とご批正を冀ふものである。</p>
<p>一、研究対象</p>
<p>日本イエズス会版は、イエズス会日本管区が、その事業として一五八八年から一六二〇年のあいだに刊行した出版物のことをいう。天正少年使節団の 帰日に伴い印刷機を将来、三十三点の出版物が知られる。キリシタン追放（一六一四年）に伴い、印刷機もマカオに移送され、そこで一点を刊行してのちのこと は知られない。</p>
<p>記録に乏しく不明点が多いが、技術はヨーロッパからの移入であり、金属活字による活版印刷で、ラテン文字の出版物が中心であったが、日本語文 字による出版もされている。現在十一点が知られており、活字の種類によって、片仮名本、前期（大字）平仮名本、後期（小字）平仮名本、木活字本（非ヨー ロッパ式）の四種に分類されている。本研究において対象とするのは、このうち、前期平仮名本と後期平仮名本である。</p>
<p>前後期は時期として二分されるだけではなく、前者が文字がおおぶりかつほぼすべて一活字に就き一字であるのに対し、後者はこぶりかつおおくの連綿活字（一活字に数字）を備えるという注目すべき相違がある。</p>
<p>二、研究意義</p>
<p>日本イエズス会版は、その後脈々と続いてゆく日本語文字活字による出版の先頭に立つ。それはすなわち、連綿し、多くの種類の仮名（異体仮名）を 交えて書いてゆくことで読めるかたちにされてきた仮名を、既製品である活字のくみあわせ（組版）を刷りあげることによって読めるようにするというとりくみ の嚆矢でもあり、これを知ることは、印刷と文字との関係という、日本語文字・書記から連綿や異体仮名がまったく廃されることについて重大な影響を及した 要因を解きほぐすうえで大きなみのりをもたらすことであろう。</p>
<p>先行研究には、天理図書館（一九七三）に見られる書誌学・技術史的なものと、安田（一九七三）のような国語学における仮名遣い研究のながれの ふたとおりがあった。近年これらは統合されつつあり、豊島（二〇〇一）では、日本イエズス会版の活字セットにおける漢字の規模・選定・推移や、ラテン文字 と日本語文字の調和の問題（和欧混植）などを検討している。また、小松（一九九八）などの日本語書記史研究の成果も取り入れられはじめている。日本語書記 史では、連綿の維持・文字遣（異体仮名選択）による語境界卓立機能などが研究されてきたが、白井（二〇〇八）では、とくに後期平仮名本の文字遣について調 査し、その文字遣が後期平仮名本の特徴を活かし、語境界卓立機能が実現できることを示し、日本イエズス会版における組版上の工夫をあきらかにした。</p>
<p>三、研究の方向性</p>
<p>現在、先行研究や関係資料の入手および整理から、有効な研究手法とその効果をまとめている段階である。</p>
<p>印刷と文字の関係について考えるとき、高木（二〇〇六）が、明治時代に「る」の活字字形がどのように固定化していったかの歴史を示しているのは 注目される。高木（二〇〇六）の論点からは、文字のかたちという問題において、日本イエズス会版の関係者が、その活字の印するかたちをどのように捉えてい たか、という問題や、仮名の変遷のなかでの日本イエズス会版の文字の位置の問題を考えることができる。白井（二〇〇五）において、前期平仮名本の組版が 「美術的な筆写物にみられる多様性にも配慮したもの」と述べられるとおり、新出のメディアである活字本は筆写本の達成した流麗な仮名を実現せずしては実用 に達しなかった。この点において、日本イエズス会版が後期平仮名本から連綿活字を導入したのは興味ぶかい。</p>
<p>今後研究内容を定めるにあたり、連綿や文字遣の気くばりという仮名に当然備わるべきことを実現しようとすることと、活版印刷の技術的制約との おりあいを付けてゆく試行過程（活字化）を捉えることを考えてゆきたい。そうすることで、文字を活字にするうえで、手書きでは表現できる抑揚や筆づかいと いったものが表現し得ないということは、文字の機能としてどのような性質の違いがあるといえるのか考えてゆくいしずえにしたい。</p>
<p>文献</p>
<ul>
<li>小松英雄（一九九八）『日本語書記史原論』笠間書院</li>
<li>白井純（二〇〇五） 「キリシタン版前期国字版本の平仮名活字について」石塚晴通教授退職記念会編『日本学・敦煌学・漢文訓読の新展開』汲古書院、八三六‐八四三ページ</li>
<li>白井純（二〇〇八）「キリシタン版の文字遣」第九九回訓点語学会研究発表会</li>
<li>高木維（二〇〇六）「ひらがな史の研究　 「る」の字形にみえる印刷・手書きの対照」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』六、二二三‐二三八ページ</li>
<li>天理図書館（一九七三）『きりしたん版の研究』</li>
<li>豊島正之（二〇〇一）「ぎやどぺかどる解説」『キリシタン研究』三八、三五四‐三九二ページ</li>
<li>安田章（一九七三）「吉利支丹仮字遣」『国語国文』四二‐九、一‐二〇ページ</li>
</ul>
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		</item>
		<item>
		<title>いたういふかひなきはなし: 『閑居友』上20話の小說的讀解</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2008/12/worthless_to_deal-kankyo_no_tomo_vol_1_tale_20/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2008/12/worthless_to_deal-kankyo_no_tomo_vol_1_tale_20/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 06 Dec 2008 09:54:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[文學]]></category>
		<category><![CDATA[Buddhism Literature]]></category>
		<category><![CDATA[Criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Japanese Literature]]></category>
		<category><![CDATA[Mediaeval Literature]]></category>
		<category><![CDATA[Study]]></category>

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		<description><![CDATA[これは、『閑居友』についての講義で提出したレポートである。上巻第20話について旧来の読解の問題点を指摘した。新見としてはまだまだ至らないところが多いし、旧来の読解についても叮嚀に問題点を指摘しえたわけでもない。その意味で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>これは、『閑居友』についての講義で提出したレポートである。上巻第20話について旧来の読解の問題点を指摘した。新見としてはまだまだ至らないところが多いし、旧来の読解についても叮嚀に問題点を指摘しえたわけでもない。その意味で単なる青春の一記録に堕してゐることは否めないが、「さわやかな説話集」（太田晶二郎）とでも読みながしてしまふ一節からなにかを覗きえたやうにも思ふのである。</p>
<p><span id="more-9"></span>凡例<br />
『閑居友』の引用に際して、影印本から飜刻をおこなひ、わたくしに淸濁の別、句讀點をあたへた。<br />
括弧內に示されてゐるのは丁數である。</p>
<p>一<br />
女がよそよそしくなつた夫に訴へる。</p>
<blockquote><p>かくのみなりゆけば、世中もうきたちておぼゆるに、たれもとしのいたういふかひなくならぬ時、おのがよゝになりなんも、ひとつのなさけなるべし。（上59オ）</p></blockquote>
<p>この訴へは、のちのち實際に別れてしまふことを考へあはせると興味深い。さらに、發言のなかで、「いふかひなし」の死のイメージに思ひあたる。『宇津保物語』の「あて宮」の卷にいはく、</p>
<blockquote><p>兵衞の君「おとゞ、宮、君たちひまなくおはしまし、かの君はいふかひなくなり給ヒぬるものを」ときこゆ。(96)</p></blockquote>
<p>と。閑居友の諸註には、この語を含む語列を、「あまり年をとらないうちに」（美濃部116）といふやうに、とくに踏みこんだ解釋を示してゐないが、死のひびきがまつたくないことばでもないし、にはかに排除できるものでもない。<br />
もちろん、このことばだけがあるわけではなく、「たれもとしのいたう」とあつての解釋でなければ、先に擧げたやうな解釋を示すことはあるまい。死といふのにこれらの形容はそぐはないのであつて、だからこそ、このことばから死を讀みとることが避けられてきたのであらう。小論では、おろかしくも、そのやうな道に足を踏みいれてみたいと思ふ。</p>
<p>二<br />
たしかに死のにほひが混じるこの語を用ゐられてしまつたことについて、說話のなかで、どのやうな意味があるだらうか。ここで改めて語句をひもときなほしてみる。<br />
「たれも」とは、「どの人も」と解される文脈が一般的である。先學のごとく、お互ひとみてもよいのかもしれぬが、弘めてただ一般的に云つたのでないとも云ひきれない。「いたう」は、「いたく」の音便形であり、「ひどく」などと取る。「いふかひなく」は、「いふかひなし」の連用形で、「１あれこれ言ってもしかたがない。２（人の死を婉曲にあらわして）どう言っても取り返しがつかない。３とりあげて言うほどの価値がないさま」（『日本国語大辞典』「いうかいなし」を私にまとめた）のことである。「ならぬ」は、「なつてゐない」と等しいと考へてよからう。「時」もにはかに解しがたいが、接續助詞的であり、「さのやうな狀態にある場合」とひとまづ考へておく。先學のやうに、「うちに」と解すことができるだらうか。「とき」の語義は、古代よりあまりうつろふことがない。長短の振幅こそあれ、ある一定の時期について云ふことばである。對して、「うちに」は、「さうである時閒のなかで」といふ意味で、untilとbyのやうな差があり、破格を認める理由がなければ、「うちに」とは取りえないと考へる。「いふかひなし」の三義のそれぞれについてここでの解釋を考へると、「みな（或は二人とも、以下同じ）年がひどく取りかへしのつかないやうになつてゐない狀態にある場合」、「みんな、年がはなはだしくなり死んでしまつてゐない狀態にある場合」、「みんな、年がひどくいはんかたなきやうになつてゐない狀態である場合」とそれぞれ解きうるやうに思ふ。</p>
<p>三<br />
さて、いづれにあるにせよ、女はことのけりを早々につけたがつてゐる。すなはち、老い、その先の死への嫌惡がかう語らせるのであることに疑ひはない。それに對して男の云ふ。</p>
<blockquote><p>ゑさらずおもふ事、むかしにつゆちりもたかはず。たゞし一の事ありて、うと〳〵しきやうにおぼゆる事ぞある。すぎにしころ、ものへゆくとて、のはらのありしにやすみしに、死たる人のかしらの骨のありしを、つく〴〵とみしほどに、世中あぢきなくはかなくて、たれもしなんのちは、かやうに侍べきぞかし、この人もいかなる人にか、かしづきあふがれけん、たゞいまは、いとけうとくいぶせきどくろにて侍めり。いまより我めのかほのやうをさぐりて、このさまにおなじきかとみんよ、とおもひて、返てさぐりあはするに、さら也、などてかはことならん。それより、なにとなく心もそらにおぼえて、かくおぼしとがむるまでなりにけるにこそあなれ。（上59オ-60オ）</p></blockquote>
<p>長々と引用したが、ここに改めて示されるとほり、男は、女の老いへの不安にまつたく答へてゐない。答へらしきものは、「月ごろすぎて」（上60オ）、女にあたへられる: 「出家の功德によりて、佛の國にむまれば、かならず返きて、ともをいざなはんとき、心ざしのほどはみゑまうさんするぞ。」（上六〇オ）出家をするだけでは生きたまま人を淨土に導けるものでもないのだから、これは、遠からぬ死を暗示しよう。「おのがよゝ」は、ここに實現されたわけである。</p>
<p>四<br />
しかし、女が求めてゐたものは、それだけではなかつたのであり、ここに小說風讀解の餘地がある。<br />
三のはじめにおいて、女には老い、ひいてはその影にひそむ死を厭ふ氣持ちが見いだされることを述べた。これについて、男は、死を得て久しいどくろのイメージをあたへ、生前の姿を思ひ描き、さらに、それを妻である女に重ねあはせたと吿白することによつて報ひてゐる。もしここに意味、或は裏を見いだすならば、「自分がこんなに愛してゐる妻も、死んでしまへば、どくろになつてしまふのだなあ」といふ感慨があらう。男にとつて、愛してゐるといふことが失はれかけてゐるのである。<br />
かう考へれば、男にとつて出家は、女を愛することをまさに成就させることでなければならない。だからこそ、數か月のときをおいて得た結論が出家の功德を得て、ともに淨土にむかふことなのである。<br />
とすると、女と男とで、殘りの人生について考へかたにかなりの相違があつたと現代人たるわれわれは結論するほかなからう。<br />
それでは、女の不安はどうなつたのであらうか。上二〇話には、たつたの二人しか登場しない。男が去つたあと、女は當然、獨り殘されるものとせねばならない。テクストにこのことはとりたてて語られることはないが、かう指摘することは許されるだらう。女の不安は、男が悟りを得てその緣によつて淨土に導いてもらへることを待つよりほか解消されまい、と。もしこれが後代の小說であれば、外部の導入によつて事態の轉換がはかられるだらうが、ここでは、ゐない男との同居生活が、この女にはその死まで續くことが豫感されるのである。<br />
このいつ果たされぬともわからない約束をめぐる話、と、小說風には讀める。</p>
<p>五<br />
さて、いままであへて說話のなかの作者のことには觸れずに來た。あるいはこれを物語として享受しうるかと取りくんできたといへよう。<br />
もちろん、これはかなり邪道なのであつて、これから說話として本話をどのやうに評價しうるか、檢討したい。<br />
慶政が評語において述べるやうに、佛敎のをしへに觸れる機緣をいままで持たなかつたこの男女のうちの男が、たうとい聖のものでもあらうかといふ髑髏を機緣として、出家することにより寂滅の境におもむいたことを讚するのがこの說話における主眼といへる。慶政がこの說話を評するにあたつて、じつに四件の引證がある。その第一は、男を出家へと導いた髑髏への讚であり、殘りの3件は、男が髑髏を見て出家への道が開かれたことが、佛典に說かれきたつたこととどのやうに呼應してゐるのかを說くことに費やされてゐる。發心の折り目正しさが明かされてゐると云つてもあながち過言ではあるまい。<br />
『閑居友』全體から考へるとどうだらうか。藤本は、不淨觀說話は、「人間を表面的な現象だけで判断すべきでなく、現象の背後の本質を発見すべきだという立場から書かれて」(176)ゐるとし、上20話は、「夫のふるまいを、妻は、あだし女への変心と誤解していたが、問いつめていって、彼が悟りの境地に達していたことを知」つた話とする。<br />
單にこれを女が男の變節に氣づかなかつた、男の「僞惡」を見拔けなかつたとするのには疑問がある。ある程度の說得力はあるものの、評語部分での興味のありやうを十分に反映した論ともいへないといふ弱みもある。しかし、さうすると、どのやうに統一的に理解しうるのかといふことが問はれよう。<br />
廣田は、「死骸との遭遇や愛する人との死別という偶然の機会に不浄観を観じるという型は、本来的な不浄観説話ではないがリアリティがあって説話的ふくらみをもった説話を形成する(139)」としてゐる。納得しうることも多いが、不淨に接して發心にいたるといふのは、修行である不淨觀と同一視するのにはやはり難がある。これは、不淨觀をこらすといふことが修行としても望ましいことの傍證としてとりあげられるとしても、不淨觀を自然にこらしてゐたものとはいへないだらう。陷穽のやうなことではあるが、佛敎にくらい者がやりかたこそ知らないけれども一途に求めるといふことに註目が向けられてゐるのであり、その點、上19話のあやしの僧よりも上18話のあやしの者に親く、一種の差別が見いだせるやうにも思ふのである。</p>
<p>六<br />
では、四までで示してきた評價と、五でこれまでみてきた評價とを統合、もしくは止揚して理解することは認められるのか。<br />
物語、或はテクストとして上20話を讀むとき、久保田の次の發言が腦裏に浮かぶのである: 「説話者としてはきわめて不徹底であり、不適格ですらある」(862)。この引用は、かならずしも久保田の文脈に沿ふものではないが、物語としての焦點と評語としての興味にここまでの⻝ひちがひがあるのは、尋常でないことのやうにしか思はれない。<br />
それでも、あへて、評語のがはからながめるとすれば、慶政はまさに出家の機緣を得ようとしてゐる男に寄りそつてゐたのであらう。出家たる身を勝ちとつた男を、たたへずにゐられなかつた。それが說話として十分に理解されるかといふことはあまり吟味せずに。</p>
<p>引用文獻<br />
『宇津保物語』。『宇津保物語2』河野多麻校注、日本古典文学大系11、岩波書店、1963</p>
<p>［慶政］『閑居友』。『閑居友: 尊経閣本重要文化財』勉誠社文庫125、勉誠社、1985<br />
―――。『閑居友』美濃部重克校注、中世の文学、三弥井書店、1979<br />
久保田淳「恨み深き女生きながら鬼になること: 『閑居友』試論」『文学』35 (1967): 852-63<br />
廣田哲通「不浄観説話の背景」『女子大文学』34 (1983)。『中世仏教説話の研究』勉誠社、1987。107-31<br />
藤本徳明「『閑居友』不浄観説話の成立」『説話物語論集』2 (1973)。『中世仏教説話論』、笠間叢書77、笠間書院、1977。169-86</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Extinction with Joy, or the Thing of Reality Irrelevant to Eschatology, Salvation nor Enlightenment</title>
		<link>http://blog.karpan.net/2008/12/extinction-with-joy/</link>
		<comments>http://blog.karpan.net/2008/12/extinction-with-joy/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 06 Dec 2008 08:15:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[一般]]></category>
		<category><![CDATA[Thought]]></category>

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		<description><![CDATA[人類の絕滅は、悟りあるいは魂の救濟、終末論と關はらない——このみっつがそれぞれ可能であるとして、それでもなほ、人類が絕滅することと矛盾しない。だから、人の世とて絕滅するといふ絕望を持ってゐても、まさにわがために人の世を生 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人類の絕滅は、悟りあるいは魂の救濟、終末論と關はらない——このみっつがそれぞれ可能であるとして、それでもなほ、人類が絕滅することと矛盾しない。だから、人の世とて絕滅するといふ絕望を持ってゐても、まさにわがために人の世を生きるといふのは兩立する。</p>
<p>Even though, it&#8217;s just a thought.</p>
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		<title>ことば</title>
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		<pubDate>Sat, 03 May 2008 04:37:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
				<category><![CDATA[文學]]></category>
		<category><![CDATA[Poem]]></category>

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		<description><![CDATA[+ PCC + / Diary / ことばから加筆・再録。 一枚ひらり 手のすきまからぬけおちて あなたがどこかの驛から入つた この鐵の箱は止らない およそ時刻は狂はない 證は、もう 始終を見てゐた惡魔 天使は音を立てて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://pcc.karpan.net/diary/200301272206.html">+ PCC + / Diary / ことば</a>から加筆・再録。</p>
<p>一枚ひらり<br />
手のすきまからぬけおちて</p>
<p>あなたがどこかの驛から入つた</p>
<p>この鐵の箱は止らない<br />
およそ時刻は狂はない</p>
<p>證は、もう</p>
<p>始終を見てゐた惡魔<br />
天使は音を立てて寢入つてゐる</p>
<p>それを見て<br />
これも見て<br />
いつそう<br />
ほくそ笑む</p>
<p>天使の目がうつすらと開く</p>
<p>止まらない<br />
運ばれていく</p>
]]></content:encoded>
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