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	<title>かなの靈 &#187; Japanese Reading of Classical Chinese</title>
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	<description>文字の靈などといふものが、一體、あるものか、どうか——中島敦</description>
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		<title>中國古典を訓讀する意義について</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Sep 2009 19:20:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kzhr</dc:creator>
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		<category><![CDATA[Classical Chinese]]></category>
		<category><![CDATA[Education]]></category>
		<category><![CDATA[Japanese Reading of Classical Chinese]]></category>
		<category><![CDATA[Japanese Reading of Hanzi]]></category>

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		<description><![CDATA[以下の文章は、漢文を講ずる科目で單位を得るために書いたレポートである。そもそも結論を出すつもりもなかったのだが、したがきもせず書きおろしたため、文辭よろしくないことおほからうと思ふけれども、ご寬恕いただきたい (しかもコ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>以下の文章は、漢文を講ずる科目で單位を得るために書いたレポートである。そもそも結論を出すつもりもなかったのだが、したがきもせず書きおろしたため、文辭よろしくないことおほからうと思ふけれども、ご寬恕いただきたい (しかもコンピュータで原稿を作成したわけではないので)。</p>
<p><span id="more-36"></span>〇、以下の論では、漢文敎育を意義あるものとして擁護し、擁護することにより生ずる若干のことどもを考へてみたい。</p>
<p>一、漢文訓讀とは、基本的に、漢文を日本語の古典として利用する手段である。</p>
<p>このことにより、漢文を學びきたったやり方をある程度なぞりうるほかに、古文の一環として扱へたり (中國語音に觸れずに)、日本の古典作品にまま見られる漢語語彙に親しみ、漢文をなぞった日本語文體や表記への礎としたりもできる<sup class='footnote'><a href='#fn-36-1' id='fnref-36-1' onclick='return fdfootnote_show(36)'>1</a></sup>。かやうに古文敎育に漢文敎育はおほきな意義を有してをり、そしてそのうへで訓讀を避けることはできない。</p>
<p>しかし、あるいはであるがゆゑに、漢文敎育にはおほきな問題がある。漢文を敎へる側にこのやうな意義づけがかならずしもなされてゐないゆゑに漢文敎育が意義のないことのやうに受けとられることが絕えない。また、敎へられる漢文訓讀法にも尠からぬ問題もある。以下、論ずべき點をあげてゆく。結論はにはかに出せないが、それぞれの敎育の必要であつかひが異なってしかるべきことであらうやうにも思ふ。</p>
<p>二、おなじ</p>
<blockquote><p>子曰、惟仁者能好人、能惡人（論語・里仁・3）</p></blockquote>
<p>が、</p>
<blockquote><p>子曰く、惟仁者能く人を好し、能く人を惡む (武內義雄譯、岩波文庫、1943)</p></blockquote>
<p>となり、</p>
<blockquote><p>子の曰わく、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む (金谷治譯、岩波文庫、1963)</p></blockquote>
<p>となる。</p>
<p>二、一、傳統的と認むべきは、前者であって、宮廷の訓をよく傳へ、まこと平安和文にならべてなんら異とするところがない。これに對し、金谷氏のものはいたって近代的とすべきで、ここに斷絕がある。</p>
<p>金谷氏の依った讀みかたは、江戶時代の道春點および後藤點であるが、これら二點は荻生徂徠の華音 (當代中國音) 直讀論への批判として提出されたものであり、かつ、和文ではなく漢文を正確に讀むべきとのたちばにも立ったものであった<sup class='footnote'><a href='#fn-36-2' id='fnref-36-2' onclick='return fdfootnote_show(36)'>2</a></sup>。このたちばは漢學者のたちばとして共有され、現代敎育における漢文訓讀法の基礎とされる「漢文敎授ニ關スル調査報吿」(『官報』 8630號、1912)(服部宇之吉らの編) へと引きつがれて現代にいたってゐる。</p>
<p>しかし、このたちばは金科玉條としてよいのか? 覆すとしよう。では、漢文訓讀の傳統の一翼を擔ってゐた佛敎敎團內部でさまざまな訓讀が行はれてきたことはよく知られるところであるが、どれが傳統的で、どう讀んでゆくのか?</p>
<p>二、二、一、よみかたにはべつの問題もある。武內譯は舊字・歷史的假名遣によった讀みくだしである一方、金谷譯は當用漢字・現代假名づかいである。この點について、文部 (科學) 省は、現代假名遣の現代語專用規定によってか、常用漢字・歷史的假名遣といふたちばである。</p>
<p>このたちばは適切かいなか。</p>
<p>二、二、二、歷史的假名遣にも若干の——そして漢文訓讀においてより重要な問題がある。歷史的假名遣、わけても漢字音を古代日本語で寫さうとした字音假名遣は、江戶時代、國學者の硏究によって基礎づけされたものであるが、それゆゑにさまざまな問題も知られてゐる。三と散の字音が區別されてゐない <sup class='footnote'><a href='#fn-36-3' id='fnref-36-3' onclick='return fdfootnote_show(36)'>3</a></sup>などがそれで、『漢辭海』など訂正した漢和辭書も登場しつつある一方、まだまだ受けいれられたとは云ひがたい。</p>
<p>しかし、歷史的假名遣 (和語) と字音假名遣を峻別し、字音假名遣をとりたててもちゐないたちばもある。どれに依るべきか?</p>
<div class='footnotes' id='footnotes-36'>
<div class='footnotedivider'></div>
<ol>
<li id='fn-36-1'>齋藤希史「漢文の命脈: 古典文から近代文へ」村田・ラコール編『漢字圏の近代: ことばと国家』2005所收、pp. 79-80 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-1'>&#8617;</a></span></li>
<li id='fn-36-2'>齋藤希史「頼山陽の漢詩文: 近世後期の転換点」東京大学教養学部国文・漢文学部会編『古典日本語の世界: 漢字がつくる日本』2007所收、pp. 199–208 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-2'>&#8617;</a></span></li>
<li id='fn-36-3'>沼本克明「字音假名遣いについて」築島編『日本漢字音史論輯』1995所收、p. 100 <span class='footnotereverse'><a href='#fnref-36-3'>&#8617;</a></span></li>
</ol>
</div>
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